―これは何ですか?
抹茶を飲む茶碗、天目茶碗です。
―天目茶碗とは何ですか?
鎌倉時代、日本から中国へ留学した禅宗の僧侶(禅僧)は、浙江省の天目山(山岳の名称)周辺の、禅宗寺院で修行をしました。留学を終えた僧が持ち帰った茶碗が天目山から来た茶碗=天目茶碗となったと伝えられています。茶碗は中国のものですが、名前は日本でつけられました。
また、持ち帰った茶碗が黒色をしていたため、派生して黒や褐色の釉薬を天目釉と呼びます。
その後、色に関係なく天目茶碗としての一定の姿形をしている碗を「天目茶碗」と呼ぶようになりました。
―誰が作りましたか?
作った人は分かりません。
―どこで作られたものですか?
瀬戸(愛知県)または美濃(岐阜県)です。作られた場所は特定されていません。
―この天目茶碗は中国の茶碗ではないのですか?
はい。これは中国で作られた茶碗を模して日本で作られたものです。
―中国に全く同じものがあるのですか?
全く同じものはありません。
天目茶碗の形を真似て作っています。
中国南部福建省の建窯(けんよう)製の天目茶碗とは、高台部分の形が異なっていることから、より形の近い茶洋窯(ちゃようよう)製などの茶碗がモデルになっていると思われます。
―中国のものとどこが違うのですか?
中国の天目茶碗は黒色または黒っぽい色が基本ですが、日本では黄色、黒、白の釉薬で色がつけられ、模様もありました。
―いつ作られましたか?
室町時代、16世紀と考えられています。
―中国の天目茶碗も同じころですか?
いいえ、もっと早くて12世紀の南宋時代です。日本では平安時代~鎌倉時代の頃になります。
―どうして室町時代に12世紀のお茶碗を真似て作るのですか?
実は、16世紀には中国ではもう天目茶碗は作られていませんでした。でも、日本では天目茶碗の需要があったために、新しい天目茶碗が必要だったのです。
―なぜ菊花天目と呼ばれるのですか?
黄色い釉薬に茶色の釉薬が縞のように現れており、この様子が菊の花のように見えるからです。
―土は茶色いのですか?
腰から高台にかけて、釉薬をかけない土見せのように作られていますが、これは中国製の唐物(からもの)天目の様式を真似ているからです。
実際の瀬戸の土は白っぽいため、土の上に鉄釉をぬり赤茶色に焼き上がるようにしています。
―天目台があるのですか?
菊の花びらのような細い凹凸の付けられた天目台がひとつ添っています。木製漆塗りです。いつからこの天目台が付いているか、記録はありません。
―誰が持っていたのですか?
江戸時代初期の茶人、小堀遠州(1579〜1647 第9回参照)が持っていました。遠州以前に所持していた人は分かっていません。
箱の蓋表に遠州が「菊花 天目 巳」と記しています。
「巳」は十二支の「巳」で12個の茶碗に子~戌の干支の名を付けていたそうです。
遠州の後、小堀家から安永4(1776)年に大阪の又吉に渡り、その後信州上田松平家に伝わりました。大正元年の上田松平家売り立てで、平太郎の手に渡りました。
―茶会に使われたのですか?
小堀遠州が茶会に使った記録はあります。寛永16(1639)年1月9日の茶会で使われています。
―一言でいうと?
明るい黄色に鉄釉の明るい茶色の筋が縞状に現れた華やかな茶碗です。いかにも遠州好みらしい雰囲気です。
今回の作品:重要文化財 菊花天目茶碗(きっかてんもくちゃわん)
員数 1個
時代 室町時代 16世紀
瀬戸・美濃地方で中国製の天目茶碗に倣(なら)って作られました。全体に鉄釉と黄釉を二重に掛けることで華やかな文様が現れ、これを菊の花に見立てています。中興名物(ちゅうこうめいぶつ)であることから、小堀遠州が所持していたことが分かります。
藤田美術館
明治時代に活躍した実業家、藤田傳三郎と息子の平太郎、徳次郎によって築かれた美術工芸品コレクションを公開するため、1954年に大阪に開館。国宝9件、重要文化財53件を含む世界屈指の日本・東洋美術のコレクションを所蔵。
前野絵里
藤田美術館主任学芸員。所蔵する日本や東洋の古美術品に絡むものはもちろん、宗教、建築、歴史なんでも気になる。直接役立つことも役立たないことも体験体感することが一番と考えている。