―これは何ですか?
花入です。
花入は花瓶と同じで、花を生けるためのものです。
―これはどういうところを見ればいいのでしょう?
姿、形、何で作られているか、などです。
―日本のものですか?
中国から輸入された唐物です。
いわゆる舶来品で、高価なものでした。
―唐物ということは、唐の時代に輸入されたのですか?
唐物は中国製という意味です。唐は中国を指す言葉です。
―いつ頃のものですか?
15〜16世紀のものです。中国の明(みん)時代です。
―どのように使われていたのでしょう?
残念ながら、実際どのように使われていたのか、分かっていません。
おそらく、将軍家や禅寺などの床の間を飾っていたと思われます。
千利休の時代には、唐物の花入に花を入れず花入だけを見せる目的で、水をいっぱいに入れて床の間に飾ったりもしています。
―何でできていますか?
古銅という銅を主体とした金属で、錫(すず)や鉛を含む合金で、唐金(からかね)とも呼ばれます。
―ずいぶん、シンプルな形ですね。
そうですね。
模様もなく、つるんとしています。
首の長い花入は鶴首(つるくび)と呼ばれます。唐物花入に見られる形です。
そろばん玉のような胴の形に特徴があり、「角木花入」と名前が付けられました。
―角木とはなんですか?
角木は鹿の角でできた鏃(やじり)のことだと言われます。
胴が横に張っていて、底が小さいのが特徴です。
―いつ日本にもたらされ、誰が持っていたのですか?
室町時代末までに日本にもたらされたと考えられていますが、いつ、誰が手に入れたものかわかっていません。
『山上宗二記(やまのうえのそうじき)』に出てきますが、これが最も古い記録です。
―『山上宗二記』とは?
利休の弟子、山上宗二(1544〜1590)が書いた茶道の秘伝書です。茶の湯で使われる名物道具の所在などについて書かれています。
―この花入については、どのようなことが書かれているのですか?
「一 つのき(角木) 本は道陳見て、三好実休所持す。 観世彦左(ママ)衛門
彦左(ママ)衛門拝受、紫銅無紋なる花瓶なり。人の知らざる数寄道具也。うす板居わる。」
と書かれています。
利休の師のひとりと言われる堺の茶人であり豪商でもあった、北向道陳(きたむきどうちん 1504〜1562)が見て、三好実休(みよしじっきゅう 1526~1562)が所持したとあります。
―うす板はあるのですか?
現在、盛阿弥(せいあみ)作の矢筈盆(やはずぼん)と、寸松庵(すんしょうあん)伝来の薄板が付属しています。
『山上宗二記』にある「うす板」が現在付属している薄板と同じものであるかは分かりません。
―では三好実休が持っていたのですね。
花入に付属している由来書には、三好長慶(1522~1564)が所持していたと記されています。
その後、観世彦右衛門豊次(かんぜひこえもんとよつぐ 宗拶<そうさつ> 1525〜1585)が所持していた時に、利休が見たことがわかっています。なぜなら利休がこの花入をほめた手紙が残っているからです。
―三好実休、三好長慶とはどんな人物ですか?
阿波(徳島)を本拠とし、畿内に進出した戦国大名、三好家の人です。長慶が兄、実休(義賢よしたか)が弟の兄弟です。
実休は茶人であり、名だたる茶道具を所持していたと伝わります。
兄の長慶は現在もある堺の禅宗寺院南宗寺を建立し、俳諧や連歌を得意とする文化人でした。
―なぜ戦国大名が茶道具を手に入れようとしたのでしょう?
権威を象徴するもののひとつとして、茶道具など唐物を手に入れたと考えられます。また、南蛮貿易や中国との貿易で新しいもの珍しいものを手に入れていました。文化の力を必要としていたのでしょう。
―観世彦右衛門豊次(宗拶)とは誰ですか?
観世流の能役者小鼓方(こつづみかた)で、小鼓を得意としていました。
足利義昭、織田信長、豊臣秀吉らが彦右衛門に出した領地安堵などの書状が残っています。
彦右衛門は観世流小鼓方2代目新九郎となりました。(現在の観世新九郎家は18代目)
―いつから彦右衛門がこの花入を持っているのですか?
正確な年は分かっていません。
三好長慶の没年が1564年、実休が1562年ですので、その後になるのではないかと思われます。
―先ほど出てきた利休の手紙とは?
彦右衛門が茶会を開いた時、この角木花入を使いました。茶会に呼ばれた利休が花入を見、茶会の後に手紙を送り、良い花入なので大切にするようにと書いているものです。
(全文は次の通り)
今度者御茶被下
幷花瓶拝見驚
目候 弥々御秘蔵
尤候 殊ニ宗巴令同道
祝着候儀 不図御下向
侍申候 尚記便音候
恐々謹言
拾月晦日 宗易(花押)
観彦 (封)抛筌斎
参御宿所 観彦 宗易
御宿所
最初の4行に、利休が彦右衛門の茶会で目にした角木花入に驚き、ますます大切にするようにと、記しています。手紙後半は、宗巴を伴うことになったことを嬉しく思うことなど、花入と別件について記されています。
日付はありますが(10月末日)年号がなく、いつのものか分かりません。
―彦右衛門の後は誰が持っていましたか?
幕末の嘉永3(1851)年に観世家より酒井家へと移りました。
近代に入り、大正12年に行われた若州酒井家入札で藤田平太郎が落札し、以後、藤田家から藤田美術館へと伝えられています。
―一言でいうと
模様がなく、シンプルな形が最大の魅力です。ところどころに金色が見えるため、元は鍍金(ときん)されていたのかもしれません。このような花入に価値を見出した戦国、安土桃山時代の人々も、現代と変わらない美意識を持っていたと思います。
今回の作品:古銅角木花入(こどうつのきはないれ)
時代 中国 明時代 15~16世紀
鹿の角で作った鏃に花入の形が似ていることから角木と呼ばれています。能楽師の観世彦右衛門豊次(宗拶)が開いた茶会で見たこの花入を褒めた利休の消息が添えられています。中国より輸入された唐物で、南宋~元時代に作られたとも考えられています。
若州酒井家の売立において平太郎が落札しました。
藤田美術館
明治時代に活躍した実業家、藤田傳三郎と息子の平太郎、徳次郎によって築かれた美術工芸品コレクションを公開するため、1954年に大阪に開館。国宝9件、重要文化財53件を含む世界屈指の日本・東洋美術のコレクションを所蔵。
前野絵里
藤田美術館主任学芸員。所蔵する日本や東洋の古美術品に絡むものはもちろん、宗教、建築、歴史なんでも気になる。直接役立つことも役立たないことも体験体感することが一番と考えている。