INTRODUCTORY SELECTION

前野学芸員がやさしくアートを解説します。|入門50選_16 | 色絵輪宝羯磨文香炉

京焼の大成者 仁清とは?

 

色絵輪宝羯磨文香炉(いろえりんぽうかつまもんこうろ)

 

―これは何ですか?

香炉です。仏前で香を焚くための道具で、中に灰を入れて線香などの香を焚きます。

香炉など灰を入れて使う焼物は、内側に釉薬をかけず素焼きにします。

 

―どれくらいの大きさですか?

口径16.2㎝、高さ12.3㎝です。

胴の最も幅の広い部分は18.8㎝あります。

 

―誰が作りましたか?

17世記に活躍した京焼の陶工、野々村仁清(にんせい)です。

 

―仁清、よく聞く名前ですね。どんな人ですか?

生没年はわかっていません。本名は清右衛門といい、丹波国野々村(京都府南丹市美山町)の出身と言われています。もとは丹波焼の陶工で、瀬戸でも修業をしたと考えられています。

正保4年(1647年)ごろに、京都御室(おむろ)にある仁和寺(にんなじ)の門前に窯を開き、茶人である金森宗和(1584〜1656)のもと、茶入や茶碗などの茶道具を作りました。仁和寺の「仁」と清右衛門の「清」をとって、仁清と名乗り、色絵の技法を完成させ、京焼の大成者として名を馳せました。

 

―京焼もよく聞く言葉ですが、どんな焼き物ですか?

桃山時代以降、京都で作られた焼物全般を京焼と呼びます。現在、京焼や清水焼としてイメージされるような白い焼物に色を使って絵が描かれているものの原型は仁清にあります。

 

―仁和寺の門前に窯を築いたのはなぜですか?

残念ながら、その経緯についてはわかっていません。

仁和寺は平安時代に創建された最高の格式を持つ門跡寺院でした。応仁の乱(1467年〜)以後荒廃しましたが、ちょうど仁清が窯を開いた頃に、徳川家光の命によって、再建されました。

仁清は最初、金森宗和の指導のもと、作陶を行いました。垢ぬけて華やかな作品を安定的にたくさん作り、仁和寺を中心とする上流階級の人々に受け入れられました。仁和寺御用達としても作陶を行ったと考えられています。

 

―たくさん作品が残っているのですか?

国宝である京極家伝来の茶壺をはじめ、展覧会がひとりで開催できるくらいの作品を生み出しています。

 

―金森宗和はプロデューサーのような立場ですね。どんな人ですか?

飛騨高山を治めた金森家の嫡男でしたが、廃嫡され、京都で茶人として活躍しました。息子を前田家に仕官させるなど、有力大名とのつながりがありました。

近衛信尋(このえのぶひろ)ら貴族とも親しく、小堀遠州、松花堂昭乗といった同時代の文化人とも交流がありました。

 

―仁清は作品に名前を残すアーティストのようなイメージがあります。

確かに、作品に個人名が出てくる時代と言えると思います。

仁清は白い下地を施した陶器に、上絵具を用いて模様などを描く色絵の技術、中でも安定的に鮮やかな赤色を表現する技術を完成させました。

それまで緑や青といった色が主だったところに、鮮やかな赤色が入ることで華々しい世界を表現できるようになりました。

同じ17世紀初めに、磁器に赤色を用いたのが柿右衛門です。

仁清の窯は次の代で尾形乾山の窯に吸収されますが、柿右衛門窯は代々続いています。

 

―この香炉は現代にもありそうな作品です。

透明な白釉がかけられた卵殻色の胎土に、赤、緑、青、金の4色を用いています。素地が真っ白ではないので、柔らかい印象の作品になっています。畳付(たたみつき)付近の釉薬がきれる部分に、釉薬をかけた時に仁清が持った指痕と思われる、釉薬のかかっていない凹みがあります。人間的な味わいが感じられる部分です。

 

―この模様は何ですか?

密教で用いられる法具、羯磨(かつま)と輪宝(りんぽう)が交互に表されています。全部で6つあります。

両端に突起がある三鈷杵(さんこしょ)を十字に組み合わせたものが羯磨、輪の形をしたものが輪宝です。インドでは武具でした。

 

底裏銘文

 

―こちらは重要文化財ですね。

香炉の裏に銘文があります。

「明暦三年 播磨入道 奉寄進 仁清作 卯月日」

ここから明暦3年(1657年)に作られたことがわかります。

仁清自身が記した制作年の明らかな作品は他にないことから、重要な作品と位置づけられています。

さらに、この香炉を納める箱に、旧所蔵者である安養寺の僧が幕末の1843年に記した箱書があります。

 

箱書

 

以下全文です。

    仁清奉納香炉之記並附属証

  同氏者当院檀那若年之砌本尊ニ

  工業上達之致祈願満願之後当寺

  及本山御室宮槇尾三所ニ奉納之

  然ルニ天保十二丑年八月為大風之ニ 

  諸宇及大破于時同国大山崎荘

  前田氏当寺ニ格別之由緒有之

  依而旧(カ)功積営繕悉皆成就ス 

  本山之御許上其功依附属者也

   天保十四癸卯年三月日

   山城国乙訓郡大原野

    安養寺現主実玄(花押)

これによると、この香炉は仁清が作陶技術向上を安養寺本尊に祈願し、満願、つまり仁清が納得いく技術を修得することができたので、その御礼として香炉を3つ作り、ひとつを安養寺、もうひとつを安養寺の本山御室仁和寺、3つ目を槇尾(西明寺か)に納めたことがわかります。

1657年に仁清は、轆轤(ろくろ)や絵付けなど窯業全般の技術が自分の思うレベルに達したと納得したのです。

この箱書が無ければ、作られた経緯や、全く同じものが存在する理由を知ることはできませんでした。そう考えると、非常に重要な情報だということがわかります。

 

―3つとも残っているのですか?

本山仁和寺にあったのではないかと思われている香炉があります。裏に同文の銘文があり、重要文化財になっています。

3つ目ははっきりしませんが、少し装飾が異なり裏に銘文のないほぼ同型の香炉があります。

 

―一言でいうと

華やかな色絵を思い浮かべる野々村仁清の作品の中でも、白地を活かし、大振りの模様をポンポンと配した明快な香炉です。轆轤技術も色絵技術も大成し、満願を報告する目的で作られており、仁清本人としても明暦3年当時において会心の出来映えだったのではないでしょうか。

 

蓋付

 

 

今回の作品:重要文化財 色絵輪宝羯磨文香炉(いろえりんぽうかつまもんこうろ)

時代  江戸時代  17世紀(明暦3年銘 1657年)

作者  野々村仁清 ののむらにんせい

口が広く肩が張り、底の小さい壺型の香炉です。卵殻色の胴に、赤、緑、青、金彩を用いて羯磨と輪宝が交互に描かれています。高台の内側は施釉されず、素地が露われています。全体に薄く作られており、轆轤技術の高さがわかります。高台内には仁清が「明暦三年 播磨入道 奉寄進 仁清作 卯月日」と記しています。

また、箱書から同じものを3点作り、大原野安養寺、御室仁和寺、槇尾に奉納したことが分かります。黒漆塗の蓋を伴っており、安養寺を出てから茶道具の内の水指としても使用されました。

 

 

藤田美術館

明治時代に活躍した実業家、藤田傳三郎と息子の平太郎、徳次郎によって築かれた美術工芸品コレクションを公開するため、1954年に大阪に開館。国宝9件、重要文化財53件を含む世界屈指の日本・東洋美術のコレクションを所蔵。

 

前野絵里  

藤田美術館主任学芸員。所蔵する日本や東洋の古美術品に絡むものはもちろん、宗教、建築、歴史なんでも気になる。直接役立つことも役立たないことも体験体感することが一番と考えている。

 

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