―これは何ですか?掛け軸?
はい。掛け軸で、雪舟の自画像です。
これは原本を写した模写(模本)と言われています。
―大きさはどれくらいですか?
縦59.3㎝、横28.4㎝。絹に描かれています。
―そもそも雪舟って、どんな人ですか?
涙でネズミの絵を描いたという伝説のある人です。
残された作品は多く、6点も国宝に指定されていますが、どのような人生を送ったのかなど謎の多い人物です。
1420年に備前国(今の岡山県総社市)で生まれました。
子供の頃に出家し、地元の宝福寺に入ったと伝えられ、この寺でネズミの絵を描いたことになっています。
その後、京へ上り東福寺や相国寺に入ったようです。
―ということは、雪舟はお坊さんなのですか?
はい、そうです。禅寺に入っているので禅僧です。
でも、僧としては、あまり出世しなかったようです。
―なぜ絵を描いたのですか?
雪舟が描いたような、主に墨を使って描く水墨画系の絵は、中国から禅宗を通じて日本へもたらされ、広まりました。
水墨画を描く人は、鎌倉、室町時代を通じて、禅宗寺院に関係しています。
雪舟は相国寺で修行中に、周文(しゅうぶん)に絵を学んだと言われています。周文も禅僧でありながら、水墨画を描き、画僧とも呼ばれます。
―ずっと京都にいたのですか?
34歳の頃に周防(山口県)へ移り、その地を治めていた大内氏のもとで絵を描きました。
応仁の乱の始まった1467年(応仁元年)に派遣された遣明船の内、大内氏の仕立てた船で中国(明国)へ渡りました。
その時、天童山景徳寺で第一座の位を与えられました。第一座は首席と同様の意味です。
雪舟は中国で絵を描き、現地で賞賛されています。
およそ2年で帰国し、晩年まで筆を握りました。美濃や天橋立などを旅したのではないかとも言われています。
―なぜ、この絵が雪舟とわかるのですか?
画面の左端にある一行に
「自筆寫寿像付與等観蔵主四明天童第一座雪舟七十一歳之冬」と書かれています。
―内容は?
雪舟が71歳の冬に自分で自分を描いた像「自筆寫寿像/雪舟七十一歳之冬」とあります。この中の「寿像(じゅぞう)」は生きている人の肖像という意味です。亡くなった人を思い起こして描いた肖像は「遺像(いぞう)」と呼びます。
次に、等観蔵主(ざす)に与えた「付與等観蔵主」とあります。
―等観は人の名前ですか?
そうです。秋月等観(生没年不詳)といい、鹿児島の人といわれています。雪舟について絵を学んだ禅僧です。
後は、雪舟の肩書と署名です。中国寧波(ニンポー)にある天童山の第一座「四明天山第一座」。
雪舟71歳(1490年)の冬、印は「雪舟」と「等楊」
とあります。
天童山が、先ほどの天童山景徳寺です。
つまり、雪舟が自画像を描き、弟子の等観に与えたということが記されているのです。
―模写(模本)というのはどうしてわかるのですか?模写(模本)なのに価値があるのですか?
雪舟の描いた原本はすでに失われていることから、模本であっても大変貴重なものになります。
模本と考えられる理由は、衣の墨の線の勢いがあまりなく、慎重な線になっていることなどが挙げられます。
この絵の筆線などが原本にどれほど忠実であるかは、残念ながらわかりません。
しかし、絵の上部にある賛と呼ばれる漢文を備えていることから、原本にかなり近い作品と考えられています。
模写された時期は、雪舟の時代とそう遠くない16世紀と考えられています。但し、研究者によっては、江戸時代の初め頃と考える人もいるようです。
―なぜ肖像画を弟子に与えるのですか?
禅宗では、弟子が師について禅(法)を学び悟った証として、師は自身の肖像画(頂相 ちんそう)と法語を与えます。
雪舟は禅僧なので、頂相に倣って、画業を修めた弟子の等観に自画像を与えたと考えられています。
―禅宗と水墨画はどんな関係があるのでしょう?
禅宗は鎌倉時代に中国から日本にもたらされました。禅と一緒に、喫茶(抹茶)、水墨画、漢詩などの最新文化が、帰国した留学僧によって持ち帰られ、禅宗寺院だけではなく、武家や貴族等にも広まりました。これらは禅の精神と一致するものとして重んじられました。
禅僧が僧であることの他に、得意とする分野があれば、それを「余技(よぎ)」と呼びます。水墨画を得意とする禅僧は画僧と呼ばれました。
雪舟の水墨画の師である周文は、雪舟と同じ相国寺の禅僧ですが、将軍足利義教お抱えの御用絵師になっています。
―雪舟が被っている帽子は?変わっていますね。
中国の帽子で、烏紗帽(うさぼう)といいます。黒い薄い絹でできているので、頭の輪郭が透けて見えています。
なぜ、この帽子を被っているのかはわかりませんが、中国から持ち帰ったと考えられます。肩書きにも天童山の第一座とあり、中国留学の経歴を示すために被っていると考えられます。
―上に書かれている文字は?
絵画で画面の中に書かれた漢詩文などを賛(さん)と言います。
最初、自画像に賛はありませんでした。この絵を持って中国に留学した等観が、向こうで青霞という号を持つ文人に書いてもらいました。
最後に「天府第一名儒士秀才青 霞沐手賛」とあり、儒士(文人)と考えられています。
また「弘治丙辰歳再季春念八日」は西暦1496年閏(うるう)3月28日で、この時に記されたことが分かります。絵をもらってから6年後になります。
―これも書き写したものですか?
青霞の最後の署名(落款 らっかん)に印がないこと、雪舟の落款と墨の色が同じであるように見えること、書体が中国文人のものと思われないことなどから、雪舟の肖像とともに書き写されたと考えられています。
―何が書いてありますか?
全文は次の通りです。
「説破空花 本無色相 不現
色相 以何供養 傳百千年
一日想像 嗟乎此即師之
凝思於詞藻之時 援豪於
雪蕉之際 這般模様 若
夫所蘊蓄者 自在有情
空盡無上者也」
―この作品は重要文化財ですよね。
次回紹介する了庵桂悟(りょうあんけいご)墨跡の附(つけたり)として指定されています。
了庵桂悟の墨蹟と一緒にひとつの箱に入っており、墨蹟の重文指定に伴って、同時に指定されました。
―他にも同じような作品があるのですか?
この自画像と同じ原本から写したと思われる作品が複数あります。
署名の場所が違ったり、賛が写されていなかったり様々です。
青霞の賛も一緒に写した作品は、他にありません。
―この作品を一言で説明すると?
雪舟といえば、肖像画としてこの作品が教科書やテレビで取り上げられることが多いため、藤田美術館蔵と知らずに、この絵を知っている方が多くおられます。雪舟を知る大変貴重な作品です。
今回の作品: 重要文化財 雪舟自画像 模本(せっしゅうじがぞう もほん)
時代 室町時代 16世紀
自筆の原本は確認されておらず、数点の模本が確認されています。この絵は、上部の賛や落款が写されていることなどから、最も原本に近いと考えられています。落款から雪舟が71歳の時に弟子の秋月に与えたことが分かっています。
藤田美術館
明治時代に活躍した実業家、藤田傳三郎と息子の平太郎、徳次郎によって築かれた美術工芸品コレクションを公開するため、1954年に大阪に開館。国宝9件、重要文化財53件を含む世界屈指の日本・東洋美術のコレクションを所蔵。
前野絵里
藤田美術館主任学芸員。所蔵する日本や東洋の古美術品に絡むものはもちろん、宗教、建築、歴史なんでも気になる。直接役立つことも役立たないことも体験体感することが一番と考えている。