INTRODUCTORY SELECTION

前野学芸員がやさしくアートを解説します。|入門50選_08 | 天猫姥口釜

信長が勝家に与えた茶の湯釜

 

茶室の炉に据えた 天猫姥口釜(てんみょううばぐちかま)

 

―これも茶の湯の釜ですか?

そうです。茶の湯の席で、湯を沸かすための釜です。

 

―天猫とは?

古くは天命、現在は天明、江戸時代には天冥とも表記したようですが、現在の栃木県佐野市付近の地名で「天明」、「てんみょう」と読みます。

地名ですが、鋳物として作られた物も指しています。

この作品では、天猫の文字を使っています。様々な文字で表記される理由は、江戸時代に天明を地名と思わず、釜師天猫という人物が作ったというように、人の名前と思い誤ったことが理由のようです。

 

―今は?今も作っているのですか?

天明では江戸時代を通じて、仏像仏具など鋳物生産が行われており、現在も鋳物業が盛んなようです。

 

―天猫(明)釜はいつ頃のものですか?

16世紀です。茶の湯に用いる天猫(明)釜は期間が短く、16世紀中には生産されなくなったと考えられています。

 

天猫姥口釜

 

―天猫(明)釜はずいぶん自由な形ですね。

芦屋釜のように、決まった形ではありません。いろいろな形がありますが、この姥口釜は素直な釜の形です。ただ、今の茶席の炉の寸法からすると、入るギリギリの寸法です。とても大きいです。

 

―この釜の特徴は?

天猫(明)釜の見どころは、肌の様子と言われています。この釜の肌は「縮緬肌」と呼ばれるもので、滑らかではなく、表面が縮れたように見えるものです。

天猫(明)釜で文様のあるものはほとんど無く、ゴツゴツとした鉄の荒れたような肌です。

 

―釜の中央部分に1本ある線は模様ですか?

これは鋳造時に上部と下部の型の継ぎ目にあたる部分の痕跡と思われます。

羽が付いていた場合は、羽を欠いた跡の場合もあります。

また、底替えといって、傷んだ釜の底を取り替えたり、底のサイズを小さくするために下半分を取り替えたりすることもあります。

 

―なぜそんなことを?

今のような炉に茶の湯の釜を据えるようになる以前は、羽釜のように胴につけられた羽で釜を支えて火にかけました。

炉に釜をかけるようになると、炉の寸法に合わないため、羽を外し、炉に釜を据える場合もあります。

底の取り換えは、鋳直す場合もありますが、漆を使って底部分を接着する方法もあるようです。

 

―この釜は有名なのですか?

織田信長所持として知られています。

信長は、家臣団に許可を与えて茶の湯を行わせていました。また、当時有名な茶道具を次々と手中に収めていました。これらの茶道具を家臣の勲功に際して、分け与えたと言われています。

 

―釜も集めていたのですか?

もちろん、有名な釜も対象でした。

松永久秀という武将が大切にしていた古天明平蜘蛛釜を信長に渡さず、爆死したという逸話が知られています。これも天明釜です。

 

 

左 箱蓋表  右 箱蓋裏

 

―箱の蓋に何か書いてあるのですか?

一番内側の箱の蓋の表側に「天猫姥口釜」、裏側に「信長公御所持 柴田修亮拝領姥口釜」と三沢寿軒が書いています。

織田信長(1534~1582)が所持していた釜を、柴田勝家(1522~1583)が拝領したと記されています。『信長公記』にも「姥口釜」についての記述があります。

 

―箱はいくつもあるのですか?

釜を収める箱は2重で、その外側に大きな箱がひとつあります。そこには、蓋や掛軸になっている添状を収める箱も入ります。

 

掛軸(添状)

 

―掛軸もあるのですね?

掛軸は大黒庵と署名のあるもので、休老宛となっています。大黒庵は武野紹鴎、休老を千利休と解釈されていますが、本物であるかどうかは今後の研究が必要です。

 

―どんな内容なのでしょう?

釜が勝家に渡った時の逸話が書かれています。

柴田勝家が釜を信長に所望したところ、信長が「なれなれて あかぬなじみの姥口釜を 人にすわせんことをしぞ思う」(すっかり自分に馴染んだ姥の口を人に吸わせるのは嫌だな)という狂歌をよんで、ご機嫌よく手ずから釜を与えたという逸話が書かれています。

1700年に編纂された『名物釜所持名寄』(西村道冶撰)にも同種の歌を載せて、信長から柴田勝家に渡った姥口釜を紹介しています。

 

―蓋は二つ?

古い蓋と新しく作った蓋の二つです。取っ手の部分に金属のリングが通っているものが、元からこの姥口釜に付いている蓋です。取っ手が立ち上がっているものが、茶の湯の世界で現在も使われている形式の蓋で、のちの時代に作られたものです。

 

 

釜外箱蓋裏

 

―もう一つの釜の箱の蓋に張り付けてある紙のようなものは何ですか?

張り紙で、古筆(こひつ)家という筆跡鑑定を仕事にしている家があるのですが、そこの鑑定書が貼ってあります。織田信長が持っていた姥口釜であることなどが書かれています。箱に記してある文字については分からないとも書いてあります。

 

―天猫釜が16世紀で終わって、そのあと釜はどこでつくられるのですか?

京都で作られるようになります。京釜(きょうがま)と呼ばれる釜です。現在でも茶釜を作っています。

京都で茶釜が作られるようになると、福岡の芦屋や栃木の天明など遠隔地で生産されていた頃と違い、注文主の好みをダイレクトに反映できるようになります。

ただ、芦屋釜や天猫釜の古いものは使い続けられており、釜底を直すなどリメイクされています。

 

―釜で分かっていれば良いことは何ですか?

文様があり、ほぼ形の決まっている芦屋釜、形は自由だけれど釜肌で魅せる天猫釜など、いくつかのポイントが分かっていると良いと思います。

でも、やはり茶席で釜に出会うことができれば一番良いですね。美術館では難しいですが、実際に火にかけて湯の沸く音を聞くのも貴重な体験です。

 

 

 

今回の作品: 天猫姥口釜(てんみょううばぐちかま)

時代 室町時代 16世紀                  

栃木県佐野市付近で作られた茶の湯の釜です。なで肩のやや平たい形で、口は釜の中へ落ち込む「姥口」となっています。釻付は鬼面となっています。蓋は共蓋。柴田勝家が望み、織田信長が与えた際に詠んだ狂歌「なれなれて あかぬなじみの姥口を 人に吸わせんことをしぞおもふ」とともに伝わっています。

 

 

藤田美術館

明治時代に活躍した実業家、藤田傳三郎と息子の平太郎、徳次郎によって築かれた美術工芸品コレクションを公開するため、1954年に大阪に開館。国宝9件、重要文化財53件を含む世界屈指の日本・東洋美術のコレクションを所蔵。

 

前野絵里  

藤田美術館主任学芸員。所蔵する日本や東洋の古美術品に絡むものはもちろん、宗教、建築、歴史なんでも気になる。直接役立つことも役立たないことも体験体感することが一番と考えている。

 

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