愛知県瀬戸にて、江戸時代から窯業の原料商、明治時代からは窯元を家業とする家に生まれ、戦後、8代目の父が生涯を賭して研究した曜変天目の再現を継承し、光彩の再現に到達、さらに独自の表現を展開する長江惣吉さん。ご自宅と窯場を訪ね、曜変天目について、そして中国国内における陶磁器ブームについてお話を伺いました。
曜変天目は
どこから来たのか?
藤田 清(以下藤田) 長江さんとは、中国への陶磁器の調査にご一緒しましたよね。あのときはトラブル続きで、結局曜変天目が作られていた福建省の建窯に行くことができませんでした。
長江惣吉(以下長江) そうでしたね。あの時は二人でお酒をたくさん飲んだ思い出しかない(笑)。あの調査のときは行かれませんでしたが、私は、建窯へは50回以上通いました。父が曜変天目の研究に一生を捧げて亡くなったので、これは引き継がなければならないと決意したものの、何しろ資料がほとんど残されていなかったので、現場に行くしかない、と。父が亡くなった翌年から通い始めたのです。
藤田 実際に建窯に行かれたことでの収穫は大きかったのでしょうか。
長江 窯跡には、とにかく陶片が地層のようになって残っていました。それをくまなく観察して、あとは周辺の土の地質調査もしました。建窯の周辺では蛍石という石がたくさん採れるのですが、これを使って焼成中に酸性ガスを発生させることで釉薬に光彩が出ることがわかったのです。
藤田 昔は、窯場の近くにある素材で作っていたでしょうしね。
長江 そうなんです。それで、20年近く前に建窯から天目茶碗の粘土と釉石を80トン運んで、ここに置いてあるんですよ。
藤田 80トン!? すごい量ですね。1回にどのくらい使うんですか?
長江 1年に1トンも使いませんね。まだ75トンくらい残ってます(笑)。最近では失敗する量が減ってきているから、消費量もあまり増えなくて。
藤田 これはいっぺんに持ってきたんですか?
長江 コンテナ1杯が40トンまでなので、2回に分けて運びました。1回目は勝手がわからなくて大変だったんですよ。福建から鉄道で天津まで運んで、天津の港から船で日本に運ぼうとしたのだけれど、なぜかそのコンテナが重慶に行ってしまって。2回目は別の業者に頼んだら、福建の港から直接日本に送ることができました。
藤田 この土、匂いが面白いですね。ふわっと、甘くていい匂いがします。
長江 ここに運んでから時間が経っているので、すっかり乾燥しています。匂いはかいだことなかったなあ(笑)。
藤田 この作業場は受け継がれたものですか? すごく広いですよね。
長江 うちは江戸時代は磁器の原料商をしていたのですが、明治時代以降から窯元になって、先代まで染付の和食器をたくさん作っていたんです。私の代でそれはやめてしまって。一人で使うには、広すぎるんですよね(笑)。
藤田 ここで作品づくりをされているんですね。
長江 はい。作品づくりということでいえば、曜変天目の再現というのは、あくまでも学術的なもので、私は「作品」ではないと考えています。ですからその研究も続けながら、研究で得た知見を自分なりにアレンジしたものを「曜々盞」と名付け、自分の作品としています。
日本と中国の陶芸家の違いと、
中国の陶磁器ブーム
藤田 長江さんは30年近く中国に通われていますが、その頃と現在には違いはありますか?
長江 かなり違いますね。1995年から2005年あたりまで、中国では古陶磁の窯跡がどんどん見つかって発掘されて、いろんなことがわかってきました。その頃がいちばん面白かったかもしれません。その後、中国国内で陶磁器ブームが訪れて、作れば高い値段で売れるようになりました。建窯の場合は、今はおそらく600軒くらい天目茶碗を売る店がばーっと並んでいて、周辺の100km圏内にも3000軒以上の天目茶碗の工房があります。工房によっては、一つの窯で天目茶碗を作って、もう一つの窯で珠光青磁を作る、なんてこともしています。古色をつけるのも彼らはすごく上手で、並べてもわからないくらいです。
藤田 陶芸家というか、陶芸の工房が増えたということですね。
長江 中国は陶芸家という概念が少し違うようで、あちらの芸大を出ている若手の陶芸家の工房に行ったら、ろくろをひいてるのは60歳くらいのおじさん。窯場に行っても、別のおじさんが働いている。「あなたは何をしているの?」と聞いたら、「私はデザインをしています」と言うんです。でも、陶芸家として名前を出して、結構な金額で作品が売れています。自分の手は使わないんですよね。全部がそうであるかどうかはわかりませんが、そういう作り方の人が多い。私もいちおう、代々の窯屋ですから経営者なんですけどね、でも自分の手で全部やっている。これについては、日本が伝統的に特殊なのかもしれませんが。
藤田 親方とか棟梁みたいな考え方からでしょうか。とくに大工さんなんかは、図面が棟梁の頭の中にしかなくて、棟梁がすべての指示を出して、持っている技術もいちばん高い。
長江 それをやれない人は、棟梁、つまり社長になれない。腕がよくて、図面が描けないと、経営もできない、ということですよね。日本の陶芸家の場合も、もちろん大きな工房なんかは一人じゃできないし、磁器は分業のところも多いですが、「陶芸家」として名前を出す場合、その人が腕のいい職人であることは大前提ですよね。
藤田 そして、一人で最初から最後まで手掛けることが尊重されていますよね。
長江 加えて言うと、私などは、経験を積んで思ったものが出来上がる成功率が上がってくると、自分のなかでは価値が下がってくるような気がしてしまうんです。「うまくいかない」と、もがいて作ったもののほうが自分のなかで価値が高いように思ってしまいますね。本当は、出来上がったものがよければどうでもいいことなのですが。
藤田 日本ですと、ろくろをひかずに型を使うというだけで、なぜか少し“ずる”をしているような感じになるのはおかしいですものね。
長江 宋の時代にすでにやっていることなんですけれどもね。八角形の花瓶なんて、ろくろでひけないでしょう?
藤田 明らかに型ですよね。
長江 だから私は、価値というものは需要と供給のバランスで決まるし、芸術性は客観的なものではないので、自分で気に入ったものであれば、それでいいのかなと思います。真贋でも、作るのに苦労したかどうかでもなくて。
藤田 僕も、中国にご一緒したときに、カエルの香炉を買おうかどうしようかすごく迷って……。
長江 ああ、耀州窯のものだったかな? いいものでしたよね。
藤田 未だに、買っておけばよかったな〜って後悔してるんですよ(笑)。
長江 本物だったとすれば、あの時に買っていれば、今では10倍の価格になっているでしょうね(笑)。
九代 長江惣吉(ながえ そうきち)
1963年愛知県にて、江戸時代は陶土商、明治時代以降から和食器の窯元を営む家に生まれる。95年より、父の八代長江惣吉の研究を引き継ぎ、曜変の再現に着手する。東洋陶磁学会にて「曜変の再現研究」を発表。同「宋代建盞の光彩の研究」論文集掲載、中国科学院古陶磁器科学技術国際討論会「曜変の光彩の再現研究」論文集掲載ほか。曜変天目の再現だけでなく、自身の作品「曜々盞」も発表。
藤田清(ふじた きよし)
1978年藤田傳三郎から数えて5代目にあたる藤田家五男として神戸に生まれる。大学卒業後、2002年に藤田美術館へ。2013年に館長に就任。現在は、2022年の美術館リニューアルに向けて準備中。