HIDDEN COLLECTIONS

学芸員がやさしくアートを解説します|天池石壁図

モテモテの中国山水画

天池石壁図 伝 黄公望

—この風景は日本ですか?中国ですか?岩肌が見えている山って日本ではあまり見たことないので、中国かなと思いました。

正解です。中国の風景が描かれています。中国・元時代に活躍した画家、黄公望(こうこうぼう、1269~1354)が描いたと伝わってきました。

 

—“伝わってきた”というのは、どういうことですか?

その画家が描いたと信じられてきたけれど、本当に描いたかどうか断言はできないというような意味です。

 

—本物ではなく偽物かもしれないってことでしょうか。

それはそうなんですが、本当にその画家が描いたかどうかの真偽以上に、長らくそうだと信じられてきた歴史そのものが重要になる場合があります。特にこの絵はそうです。

 

—なるほど…?どうして重要なんですか?

それほどまでに多くの絵師が、この絵から影響を受けたと言えるためです。詳しく説明する前に、まず、黄公望という画家について。中国では、後世に大きな影響を与えた4人の文人画家「元末四大家(げんまつしたいか)」の1人に数えられるなど、とても高い評価を受けています。現在でも人気だそうです。

 

—文人画家とは?

絵を描くことを仕事とする職業画家とは違って、自分の楽しみのために絵を描く文人(官僚、知識人)たちのことです。文人画は、科挙に合格するような頭脳を持つ知識人たちが高い精神性のもと描いた芸術として尊ばれてきました。

 

—科挙って、あのとても難しい試験ですよね。そんなに賢い人たちの楽しみが絵を描くことなんて…とても高尚に感じる。

詩や絵を作ったり、それを仲間たちと共有したりすることで、仕事のストレスをどうにか発散していたようです。彼らは日本にも大きな影響を与えました。中国からもたらされた文人画を、日本人の絵師が頑張って真似して学んで、自分の制作に活かしたのです。

 

—すごいな~っていう憧れがあったのでしょうか。

そうですね。あとは単純に絵の技術にも惹かれたのでしょう。とにかく、江戸時代以前の日本にとって中国は憧れの異国でしたから、中国画というだけでおめめキラキラになる傾向にあります。

 

—なるほど。

そして話を戻しますと、この「天池石壁図」も、黄公望という大家の作品として日本にもたらされ、多くの絵師のおめめをキラキラにしました。もともと多武峰談山神社(とうのみねたんざんじんじゃ、奈良県)というところにあり、様々な絵師が絵を見たり模写したりするためにそこを訪れたようです。その歴史を証する資料が、この絵にはいくつか付属しています。

 

—例えばどんな資料ですか?

江戸~明治時代にかけてこの絵を実見した絵師たちの様々な記録です。読むと絵へのラブコールばっかりです。それから、江戸時代に紀州(和歌山県)で活躍した画家・野呂介石(のろかいせき、1747~1828)の模写です。ほぼ実寸大で、忠実に描き写しています。

【左】野呂介石模本 付記  【右】天池石壁図 跋 / 富岡鉄斎ほか
【左】天池石壁図(原本)  【右】模本

—すごい、コピペしたみたい…でも、こっち(模写)のほうが全体的に明るく見えます。新しいからでしょうか。

それは大きな理由の1つでしょうね。原本には1341年(中国・元時代 至正元年)のサインがあり、模写は1811年(江戸時代、文化8年)に実現したという付記があります。470年も差があるので、画材の劣化具合は異なるはずです。

それから、もとの絵ではモヤモヤして不明瞭な部分も、模写では整理してはっきりと描いてしまっているので、平明な雰囲気があるのかもしれません。

原本(左)では不明瞭なところも、模写(右)では線が整理されている

—模写を見ると、意外にも色が塗られていることが分かります。

そうですね。墨だけでなく、淡い彩色が用いられています。原本もよく見ると彩色されていますよ。

 

—文人画というのは、だいたいこんな感じですか?とびきりカラフルなものはないんですか?

ないわけではありませんが、文人画家の多くは、水墨を基調に絵を描きました。理由の1つに、書と画が一体の表現方法となっていたことが挙げられます。そうして墨による様々な表現が生まれました。例えば「皴法(しゅんぽう)」と言われる、山や岩の形態や質感を表現する方法。

 

—しゅんぽう…聞きなれない言葉です。

難しいですよね。例えばこの絵で言うと、柔らかい線を繋げたり重ねたりして岩肌の質感を表しています。これは「披麻皴(ひましゅん)」といわれます。こんな感じで、色んな種類の○○○皴があります。

これが披麻皴。麻の繊維をほぐしたような線だからそう呼ばれる

—ひとつの絵にはひとつの皴法が使われる?

いえ、表現したい岩の種類に応じて、複数使う場合もあります。皴法の種類はどんどん増えて、明時代の絵の教科書には30種ほど挙がっています。

 

—この絵を初めに見たとき、壮大でかっこいいけど、繊細さもあるなと思いました。それこそ皴法が用いられた岩などから受けた印象なのかもしれません。

そうやって感じた印象を分析するのは、一歩進んだ鑑賞法で、とても良いと思います。

 

—ところで、この絵はどこを描いているんですか?

道教の修行の聖地として知られる五名山のうち、蘇州(江蘇省)の華山(別名:天池山)です。険しく切り立つ岩山です。道教とは、中国三大宗教の一つです。老子を祖として、不老長寿を究極の理想に掲げます。

 

—山に登ってエクササイズして健康で長生きしようみたいな…?筋は通ってますよね。この絵の作者も登って描いたのでしょうか?

黄公望は道教に傾倒していたので、実際に登ったかもしれません。登ってその場で描いたかと言われると分からないですね。文人画家たちは、実見した風景でも、家に帰って心の中で咀嚼してから絵に表現する、というようなことをするので…

 

—建物が描いてありますね。人が住んでいるんでしょうか?

文人画家たちが描く山水画には、多くの場合、ちっちゃい人が描き込まれるのですが、この絵の中には1人も描かれていません。何故なのでしょう。

建物がいくつか描かれるが、人っ子一人いない。不気味である

—それこそ道教の修行者が宿泊する仮の施設かも?

そうかも。たまたま誰も泊まっていないんですかねぇ。

 

—最後に、藤田家はどんな経緯で手に入れたんですか?

先ほど説明したように、江戸時代には多武峰談山神社(奈良県)の千手院にありました。その後はしばらく行方不明でしたが、明治9年(1876)に京都の画家・雨森白水が入手し、明治政府の陸軍中将・鳥尾徳庵の手に渡った後、明治18年までに藤田傳三郎が所蔵することとなりました。

 

—とにかく色んな人が、見たり欲しがったりしたものなんだと分かりました。ひとことで言うと?

その通り。たくさんの色んな人が、学んだり鑑賞したりしてきた中国絵画、です。

 

 

 

今回の作品:「天池石壁図」(てんちせきへきず)

黄公望 / 中国・元時代 至正元年(1341)

道教の修行の聖地、中国・蘇州(江蘇省)の天池山が描かれる。作者と伝わる、中国・元時代末に活躍した文人画家、黄公望(1269~1354)は、江戸時代の日本でも尊崇された。かつては多武峰談山(とうのみねたんざん)神社(奈良県)の千手院に伝来し、彭城百川、高芙蓉、円山応挙など様々な画家が実見のために訪れたことが知られる。

 

藤田美術館

明治時代に活躍した実業家、藤田傳三郎と息子の平太郎、徳次郎によって築かれた美術工芸品コレクションを公開するため、1954年に大阪に開館。国宝9件、重要文化財53件を含む世界屈指の日本・東洋美術のコレクションを所蔵。

 

石田 楓

藤田美術館学芸員。美術に対しても生きものに対しても「かわいい」を最上の褒め言葉として使う。業務上、色々なジャンルや時代の作品に手を出しているものの、江戸時代中~後期の絵画が大好き。

HIDDEN COLLECTIONS