
―「ととや」って読むんですか?どういう意味でしょうか。
昔、魚のことを「とと」という呼び方がありました。なので、ととやは魚屋を意味します。魚屋の店先にあった器を、茶人・千利休(1522~1591)が茶碗として見出したことに由来すると言われますが、諸説あります。また今回紹介する茶碗が、利休が見出した一番最初の斗々屋茶碗と伝わります。
―魚屋にあった器?どういうことでしょう。
実は、「茶碗」と呼ばれているものの多くは、元々抹茶を点てたり飲んだりするための器ではありませんでした。日本に輸入された後、茶人たちが「これ、お茶碗として使おう!」ってしちゃったんです。魚屋の場合も、本来何のための器か分かりませんが、利休がお茶碗にしてしまった、ということです。
―すべて千利休と関係があるってこと?
いえ、利休と直接関係あるのはこの本手利休斗々屋茶碗だけです。
―斗々屋茶碗はたくさんあるんですか?
人気があったようで、斗々屋と言われる茶碗は現在までたくさん伝わっています。具体的な数を示すのは難しいですが…
ちなみに大きく2種類に分けられて、深い作りのものを「本手(ほんて)」、浅いものを「平(ひら)」と言います。

―この箱の字は?
小堀遠州(1579~1647)という大名茶人が書きました。千利休の孫弟子にあたり、独自の美意識を打ち出しました。今でも遠州流という茶道の流派があります。道具の蒐集、目利きも優れていて、遠州の鑑識は後の茶道具評価に大きな影響を与えました。
―小堀遠州という人が持っていたってことですか?
そうです。元は利休が所持していて、それを弟子の古田織部(1543~1615)に渡し、さらに織部が弟子である遠州に譲りました。いずれも茶道史に燦然(さんぜん)と輝く、極めて重要な茶人たちです。
―この色合いはどうやって出しているんですか?土の色かなと思いました。
釉薬を掛けているようです。茶色味がかった黄褐色で、枇杷色(びわいろ)なんて表現することが多いですね。土はひっくり返してみると見えます。こげ茶色というかなんというか。こちらから見ると釉薬を掛けたことがよく分かりますね。
―これまで見た茶碗を思い浮かべると、こういう色や形のタイプは高麗茶碗と呼ばれていた気がします。
お見事です。この茶碗も高麗茶碗のひとつです。朝鮮半島で作られた茶碗の総称が高麗茶碗で、そのうちの一種が斗々屋ですね。他にもたくさん種類があります。中国でつくられた茶碗とは雰囲気が少し違うかもしれませんね。
―色々ある高麗茶碗の中で斗々屋茶碗の特徴と言えるものはありますか?
ひとつにはこの色味です。他には轆轤目(ろくろめ)が見えること。ろくろで茶碗を成形したときの痕跡で、横方向の線が見えます。後は、目跡(めあと)が多いこと。茶碗を焼くときに何碗か重ねるのですが、その際に茶碗同士がくっつかないように入れる支えの跡です。これらは斗々屋の特徴であり、見どころと言われます。
―ん?でもこの本手利休斗々屋茶碗には当てはまらないような…
そうなんです…
これ以外の斗々屋には先ほどの特徴がみられるんですが、この本手利休斗々屋茶碗には見られないんです。
―なんだか混乱してきました。
実は斗々屋茶碗は作りの幅が非常に広くて、「斗々屋茶碗はこれこれこういうものだ!」と定義するのはすごく難しいんです。しかもその中でさらに異質なのがこの本手利休斗々屋茶碗です。これが最初の斗々屋茶碗なんですけどね。
―ひとことで言うと?
斗々屋茶碗の、一番初めの茶碗。千利休、古田織部、小堀遠州が所持してきた、由緒正しい茶碗です。
本手利休斗々屋茶碗 ほんてりきゅうととやちゃわん
時代:朝鮮時代 16世紀
員数:1碗
法量:高6.7cm 口径14.2cm 高台径6cm
千利休が魚屋の棚から見出したとされる斗々屋茶碗そのものと伝わる。枇杷色の釉薬がかかり、所々白い釉薬の溜まりが見える。口縁部はやや反り、胴部には轆轤目が見え、腰が強く張る。高台は低く大振りで、竹の節形に作り土見せとなる。見込みは深く、内部の底面がやや平らに広くなっている。利休以後、古田織部、小堀遠州と名だたる茶人の手に渡った。
2025年4月1日から2025年6月30日まで藤田美術館にて展示中。
藤田美術館
明治時代に活躍した実業家、藤田傳三郎と息子の平太郎、徳次郎によって築かれた美術工芸品コレクションを公開するため、1954年に大阪に開館。国宝9件、重要文化財53件を含む世界屈指の日本・東洋美術のコレクションを所蔵。
今回の学芸員:國井星太
藤田美術館学芸員。きれいなものを見るのとおいしいものを食べる(飲む)のが好き。美術以外にも哲学、食文化、言語学…と興味の範囲は広め。専門は日本の文人文化。最近読んで面白かった本:川原繁人『「声」の言語学入門 私たちはいかに話し、歌うのか』