
-これはお面ですね。どんなお面でしょうか。
能に使う能面です。面(おもて)とも呼びます。この般若(はんにゃ)は能面の中でも有名かもしれません。見たことありませんか?
-確かに聞いたことがあります。ちょっと乱れた髪の毛が気になりますが、男性ですか?女性ですか?
良いポイントに気が付きましたね。この髪の乱れは心が乱れてしまった女性をあらわしています。
-心が乱れてしまったというと?
主に失恋の悲しみ、嫉妬や怒りです。実はこの般若は元々人間の女性で、悲しみや嫉妬、怒りによって鬼に変身してしまった姿をあらわしています。
-女性が鬼に!具体的にはなにがあったんでしょう。
有名な演目だと『道成寺(どうじょうじ)』があります。紀伊の国にある道成寺での恋愛にまつわる物語で、簡単に言えば意中の男性に逃げられそうになって、追いかけるうちに蛇になってしまう女性を供養する話です。ことのあらましを紹介しますね。長くなるので読み飛ばしても構いません。
1人の山伏が熊野詣のために毎年同じ宿に泊まっていました。そこの幼い娘をかわいがっていたのですが、娘の父が「あの山伏は将来お前と結婚するんだよ」などと冗談めかして言ったのを、娘は幼心に本気にしてしまうんですね。山伏としては自分の知らない間にそんなことになっているんですけど、ある年に娘から「いつになったら嫁にしてくれるんだ!」と迫られてしまう。山伏は説得してその場を収めるのですが、怖くなって夜のうちに道成寺に匿ってもらうことにします。娘は山伏に逃げられるかもしれないと川を越えて追いかけるうちに蛇の姿になってしまう…というような筋です。
-悲しいお話ですね…その演目につかうんですね。
そうです。前半では普通の女性の面を用いますが、後半では般若の面を使います。他には源氏物語に取材した『葵上(あおいのうえ』でも般若を使います。
-元はどんな女性だったんでしょう。
例えば、当館所蔵の「能面 小面 ゆふかつら」は変身前の若い女性役に使えると思います。小面という最も若い女性に用いる面です。ほら、前髪が整っていますね。

-綺麗な女性に角が生えて、輪郭は骨ばって、目や歯は金色になってしまっています!
確かに、輪郭も変わってしまっています…目が金色というのは実は意味があって、能面の世界では、人ならざる者、つまり鬼や神の面は金環を嵌めることになっています。
-裏側はどんな感じですか?
こんな感じです。木を削って作ったことがよく分かりますね。

-意外とかわいい。お猿さんみたいかも
たしかに。そんな風にも見えますね。
-木に色を塗って作っているんですか?そうだとしたら、制作当初に比べて劣化している?
その通りです。地は木で、そこに彩色しています。江戸時代の作品なので、劣化しています。木が剝がれているところ、彩色が剥落しているところもありますし、色がくすんだりしてしまっている部分もあります。制作当初はもっと鮮明な色合いだったことでしょう。
-今でも能面って作られているのですか?
現在でも面打師(めんうちし)と呼ばれる人々が能面を作っています。実際に能楽を演じる際には、文化財になるような古いお面ばかりを使えるわけではありませんから、新作も大切です。
-能面がなぜ美術館で展示してあるのでしょう?その価値って?
実際に能で使われた面たちは、日本の伝統芸能である能の歴史を伝えてくれます。この歴史というところに価値があるというのが1つ。それから、彫刻としての美術的価値があるというのがもう1つです。木に彫刻して彩色して作るという点では、仏像と同じです、と言えば分かりやすいでしょうか。
-なぜ藤田美術館は能面を持っているんですか?
当館のコレクションの礎を築いた藤田傳三郎は自身でも観世流の能を習うほどの愛好家でした。出身の萩では能が根付いていましたから、その影響もあったと考えられます。大阪網島の地に屋敷を構えた際には邸宅内に能舞台を作るほどでした。そして、奥さんたちも能を習うなど、藤田家全体で能を大事にしていたんです。そのため、実際に使う目的でも、古い面や装束を保護する目的でも、能に関するものを蒐集したと考えられます。
-習うだけでなく自宅に能舞台…?すごいですね。
かなりすごい発想ですね。ちなみに次男の邸宅にも能舞台がありました。藤田家ではないのですが網島にはもう一箇所、鮒卯楼(ふなうろう)という川沿いの料亭に能舞台があって、よく上演されていました。現在は藤田美術館がある網島の地は能と縁があるんです。
ひとことでいうと?
怒りとも悲しみともとれる表情を表現した、江戸時代の般若面。
今回の作品:能面 般若 のうめん はんにゃ
製作時代:江戸時代 17~18世紀
員数:1面
嫉妬に狂う女性を著した鬼女の面で、2本の角、大きく見開いた目、牙を剝いた口を持つ。
藤田美術館
明治時代に活躍した実業家、藤田傳三郎と息子の平太郎、徳次郎によって築かれた美術工芸品コレクションを公開するため、1954年に大阪に開館。国宝9件、重要文化財53件を含む世界屈指の日本・東洋美術のコレクションを所蔵。
今回の学芸員:國井星太
藤田美術館学芸員。きれいなものを見るのとおいしいものを食べる(飲む)のが好き。美術以外にも哲学、食文化、言語学…と興味の範囲は広め。専門は日本の文人文化。最近読んで面白かった本:水野太貴『会話の0.2秒を言語学する』