
―お着物ですか?虫がいっぱいですね!
秋の虫がたくさんあらわされています。これは能装束の一種で、長絹と言います。
―能の衣装なんですね。どんな人が着るものですか?
能はどんな役がどんな装束を身に着けるか決まっています。神さまはこれ、とか武士はこれ、という具合にです。長絹を着る役はおおまかに2種類あって、1つは女性。もう1つは身分の高い優雅な男性です。
―これは女性が着たもの?男性が着たもの?
色合いから見ると、男性だと思われます。能においては、女性が着るのは紅や紫、白など華やかな色がほとんどです。
―形の特徴はありますか?
まず、前身頃が縫い合わされていないので、羽織るようにして身に付けます。それから、袖口の幅が広いことも特徴です。さらに、裏地のない単(ひとえ)の薄い地も長絹の特徴です。

―本当だ。向こうが透けています。
絽(ろ)と呼ばれる織物で、夏の着物にも使われます。
―この長絹も夏に着るってことですか?
いいえ、夏の着物と同じ生地ですが、夏に使うとは限りません。むしろ秋の虫があらわされているので、秋ごろに使いたいところです。

―秋の虫に関係する能の演目があるんですか?
…難しいところです。「松虫」という演目があるのですが、能にはひとつの演目専用の装束を作ることはあまりありません。面(おもて)でも、装束でも、いろんな演目の色んな役に使えるようにすることがほとんどです。なので、これが「松虫」専用かというと…どうなんでしょうか。
―能面とか衣装は色んな演目で兼用するんですね。
そうです。例えば、有名な面に般若(はんにゃ)がありますね。これは嫉妬による怒りや悲しみで鬼になった女性を表現した面です。様々な演目で、恋愛の悲しみが題材となりますから、よく登場することになります。具体的に言えば、『道成寺(どうじょうじ)』、『葵上(あおいのうえ)』など。
―そうなるとこの長絹は?
色合いから見て、男性。しかも、先ほど申し上げたように優雅な人を想定できます。舞の際に薄い衣や広い袖口の動きがはかなさや優美さを表現してくれることでしょう。虫の模様も、一層はかなさを思わせるモチーフです。
―よく見ると虫が金色です。
そのとおり。金糸で織り出しています。スズムシやマツムシ、バッタなどの秋の虫たちが、夜の月光に照らされながら音を奏でる様子かも知れません。格子柄が虫かごにも見えるため、野生のというよりは捕まえてかごに入れた虫たちの鳴き声を聴く、というような趣向とも取れます。
―実際の能舞台でこの小さい虫が見えますか?
現代の能楽堂をイメージすると、遠い席の人は難しいでしょう。しかし、この装束が作られた江戸時代は舞台と席が近いですし、現代ほど広い空間でたくさんの人を入れたわけではありませんから、虫も見えたのではないでしょうか。
―ひとことで言うと?
秋の虫を金糸であしらった長絹。落ち着いた色、モチーフからはかなげな印象を受けます。
今回の作品:紺地格子虫尽文長絹 こんじむしづくしもんちょうけん
員数:一領
制作年代:江戸時代 18~19世紀
長絹は能装束のうち上衣の一種で、天女などの舞を舞う女性や宮廷貴族などの優美な男性、もしくは平家武士の役が着用する。前者の演目としては『羽衣』、後者には『敦盛』などがある。この長絹にみられる格子文に松虫や鈴虫といった秋の虫のみを金糸であしらった意匠は珍しい。
藤田美術館
明治時代に活躍した実業家、藤田傳三郎と息子の平太郎、徳次郎によって築かれた美術工芸品コレクションを公開するため、1954年に大阪に開館。国宝9件、重要文化財53件を含む世界屈指の日本・東洋美術のコレクションを所蔵。
今回の学芸員:國井星太
藤田美術館学芸員。きれいなものを見るのとおいしいものを食べる(飲む)のが好き。美術以外にも哲学、食文化、言語学…と興味の範囲は広め。専門は日本の文人文化。最近読んで面白かった本:円城塔『コード・ブッダ 機械仏教史縁起』