無名の職人が作った、漆の塗り方などが粗末なものを町棗といいます。茶人たちはそこに侘びや茶味を感じ取りました。この棗は、市場に流通していたものを千利休(1522~1591)が見出して所持していたと伝わります。利休の没後に行方不明になりましたが、曾孫にあたる仙叟宗室(せんそうそうしつ)の時代に千家に戻ってきたため「再来」の銘が付けられました。
棗などの茶道具を入れる袋を仕覆(しふく)または仕服といい、名物裂(めいぶつぎれ)を用いて作ります。茶会の趣向に合わせて使うために複数用意される場合もあります。この棗に付属する仕覆は3つで、裂は左から相良間道(さがらかんとう)、豊臣秀吉から拝領した裂、利休緞子(どんす)です。秀吉拝領の裂について、棗の箱の蓋裏には「袋切秀吉公 御腰物袋切」とあるほか、利休の妻が手縫いでつくったとも伝承されます。