芸術家兄弟の合作 | 藤田美術館 | FUJITA MUSEUM

2021年4月 施設の一部開放、 2022年4月 リニューアルオープン(予定)

TOPICS

INTRODUCTORY SELECTION

入門50選_21 | 銹絵絵替角皿

芸術家兄弟の合作

前野学芸員がやさしくアートを解説します。

 

銹絵絵替角皿(さびええがわりかくざら)

 

―銹絵(さびえ)とは何ですか?

鉄釉という釉薬で描いた絵のことです。酸化鉄ですので鉄さびの色で、茶色ですね。

器の原料となる土は白色ではないので、下地に白泥を塗って白い素地を作っています。

絵付け後に、上から透明釉をかけています。

 

―絵替(えがわり)というのはどういうことですか?

10枚ある同じ形の皿に全部違う絵が描いてあるということです。

 

―10枚はセットですか?

現在残っているのは10枚で、皿表面に描かれた絵は異なりますが、皿の縁に描かれた模様は10枚とも同じであるため、セットとして意識的に作られたと考えられます。

皿を納める箱の蓋の表に「貮拾枚の内 拾枚」とあり、もとは20枚あったことがわかります。蓋の裏には、16枚分の模様の名前が記されていて、6枚分は墨で消してあります。藤田家に入ったときには16枚だったようですが、その後、6枚は他所に譲ったとされています。

箱には皿10枚分のスペースしかありませんので、同じ箱が2箱あったのかもしれません。

 

側面の模様

 

 

―同じようなものを所有しているところは他にありますか?

ありますが、組み物として伝わったものはありません。

10枚が一緒に箱に入っていてセットで伝わったものは、これしかないです。

 

―誰が作ったのですか?

尾形乾山(1662〜1743)が皿を作り、漢詩を記しました。尾形光琳(1658〜1716)が絵を描いています。乾山は陶工として知られますが、絵や書も制作しました。光琳は絵、書の他、蒔絵のデザインなどでも知られています。

光琳と乾山は実の兄弟です。

 

―光琳、乾山の兄弟は存命時から注目されていたのですか?

そうだと思います。

でも、現代で考える注目とは少し違うかもしれません。

 

―光琳、乾山の経歴を教えてください。

光琳と乾山は京都の雁金屋という呉服商を営む裕福な家に生まれます。当時、雁金屋は後水尾天皇中宮であった東福門院(徳川秀忠娘)の御用を務める大店でした。

雁金屋の3人の息子のうち、次男が光琳、三男が乾山です。家督は長男が継ぎました。乾山が25歳の時に父親が亡くなり、莫大な遺産を3人で分けましたが、光琳は遺産を使い果たしてしまったため、生活のために、もともと得意だった絵を描くような形になりました。

乾山は堅実で、書を好み、禅の修行をしました。陶芸技術は野々村第16回でお話しした野々村仁清に学んでいます。

曽祖父である尾形道柏は本阿弥光悦の姉を妻に迎えており、京都の鷹峯(たかがみね)にあった光悦村に屋敷を構えていました。2人は幼少の頃より、茶道や書道、着物のデザインなど、本物の芸術に触れられる環境にありました。さらに才能があったということで、当然のように頭角を表すタイプの芸術家兄弟だと思います。

 

―宇多田ヒカルみたいな感じですね。これはどこで作られたのですか?

京都です。この皿は京焼です。

乾山は御室仁和寺門前で作陶を行っていた野々村仁清に作陶技術を学び、元禄12年(1699)に公家の二条家より拝領した福王子村鳴滝(京都市右京区)に窯を築き、作陶を始めました。この地が京の都の乾(西北)になるため、窯名を乾山としました。のちに、乾山が号のひとつとなりました。

鳴滝窯は1712年まで稼働し、その後は丁子屋町(京都市中京区寺町二条付近)に移り、享保頃(1716〜36)には江戸へ移り住んでいます。

 

―これはいつ頃作られたのでしょう?

記録がないので正確な年はわかりませんが、絵付けを光琳が行っていることから、光琳が江戸より戻った宝永6年(1709)から、丁子屋町へ移る正徳2年(1712)までの間と思われています。鳴滝窯時代末頃と考えられています。

 

―四角い形に意味はあるのですか?

22㎝四方のほぼ八寸(1寸は約3㎝)と言われるサイズで、八寸四方の正方形の木製の器(片木・ヘギ)をもとにして作られたのではないかと考えられます。柔らかい焼物で、型作りで作られています。

絵と漢詩という画賛形式で、色紙を意識しています。乾山が四角形の皿の形を定着させました。

 

―皿はどのように使われていたのでしょうか?

光琳が絵を描き、乾山が作っているということで、安価なものではなく、富裕層や貴族などが使う高級な食器だったと思われます。

 

―文様はどういうものですか?

10枚は梅、柳、菊、真向福禄寿、竹雀、竹寂明書入、竹賛四字、芦鶴、布袋、大黒です。

他所に譲ったと思われる6枚は箱蓋の書付によると、垂梅、椿、福禄寿、鷺、人物、恵比寿です。

箱の蓋にも記されていない残り4枚の画題はわかりません。

 

鶴皿

 

 

―さらっと描いたような絵に見えます。

白泥の上に釉薬で描くのは、紙に墨で描くようにすべりが良い訳ではなく、簡単ではありません。

でも、まるで紙に描いているように生き生きとした筆遣いとなっており、光琳の技術の凄さを感じます。

 

―それまでは器にこのような絵は描かれていなかったのですね?

はい。掛け軸からそのまま取り出したような絵は当時斬新でしたし、空白をうまく使っていておしゃれです。

 

―大黒と布袋以外には漢詩も入っていますね。漢詩は絵の後に書かれたのでしょうか?

漢詩があるのは、梅、柳、菊、真向福禄寿、竹雀、竹寂明書入、芦鶴の7枚です。竹の1枚は四文字の漢字のみが記されています。

漢詩など文字は絵が描かれた後に書かれています。

どれも乾山や光琳が作ったものではなく、中国明時代に編纂された『圓機詩學活法全書』という、漢詩を作るための参考書のような本から抜書きされた事が分かっています。

漢詩の一部しか書かれていないため、文章としては意味がわかりにくくなっています。ただ、日本に入ってきたばかりのこの本の存在を知り、使っているところが知識人の表れのように感じます。

 

―大黒と布袋には文字が何も書かれていないのですか?

裏側に乾山が書いた文字が入っています。

大黒の裏には「乾山」とあります。所謂「乾山銘」です。

布袋の裏には「家兄法橋光琳 所図画真跡 不可渉異論 者也 乾山深省製」

とあります。本当にうちの兄(光琳)が描いたという意味です。

 

大黒と布袋の裏面

 

 

―他の皿の裏は?

無地です。

 

菊皿

 

 

―漢詩の右上角や左下角には印が押されたように見えます。

これは型紙を用いたもので、赤色の釉薬を使い、判を押したように見えるよう考えられています。

絵の横には、光琳の署名「光琳画」「光琳筆」「法橋光琳」「寂明」などと記されます。

漢詩の最後には乾山の署名「乾山省書」「乾山深省書」「乾山深省毫」などです。

印章は乾山のもので、漢詩右上に冠房印、末尾に角印が表わされています。冠房印は「乾山」と読めるものもあります。角印は「尚古」「陶隠」です。 

 

―一言でいうとどんな作品ですか?

10枚揃った貴重な皿です。軟かい陶器で、軽く、脆い印象を受けますが、丁寧に扱われてきたようで、ヒビや割れはほぼありません。紙に描いたような伸びやかな線の光琳の絵、画賛として記された乾山の漢詩文や本当に印を押したような落款印章は、よく考えられ、絵画作品が立体化したような完成度の高い、光琳乾山合作角皿の代表的な作品です。

 

 

 

 

今回の作品:重要文化財 銹絵絵替角皿 さびええがわりかくざら)

時代 江戸時代  18世紀

尾形光琳、乾山兄弟合作の陶器です。10枚組で伝わります。乾山が成形し、白化粧を施した正方形の皿で、色紙に見立てた光琳が銹絵で絵を描いています。乾山が、家兄法橋光琳が描いたと記しており、元禄14年(1701)以降に制作されたことがわかる貴重な作品です。画題は鶴、梅、柳、布袋、大黒、(真向)福禄寿、菊、竹に雀、竹二種があります。箱書からは当初は20枚組であったことが分かります。乾山は仁清より作陶技術を習ったとされ、御室に近い鳴滝に窯を構えました。

 

 

 

藤田美術館

明治時代に活躍した実業家、藤田傳三郎と息子の平太郎、徳次郎によって築かれた美術工芸品コレクションを公開するため、1954年に大阪に開館。国宝9件、重要文化財53件を含む世界屈指の日本・東洋美術のコレクションを所蔵。

 

前野絵里  

藤田美術館主任学芸員。所蔵する日本や東洋の古美術品に絡むものはもちろん、宗教、建築、歴史なんでも気になる。直接役立つことも役立たないことも体験体感することが一番と考えている。

 

TOPICS FEATURE

▲ TOP