INTRODUCTORY SELECTION

前野学芸員がやさしくアートを解説します。|入門50選_09 | 古瀬戸肩衝茶入 銘 在中庵

小堀遠州が愛した茶入

 

古瀬戸肩衝茶入 銘 在中庵(こせとかたつきちゃいれ めい ざいちゅうあん)

 

茶入とは?

 

まずはこちらを見てください。

 

茶入 付属品等とその箱

 

―おおーすごい。これは何ですか?
抹茶を入れるための入れ物、茶入と付属品です。茶の湯で使います。
お盆と、茶入の蓋が8つ、袋が8つ。

 

―奥にある茶筒みたいなものは?
挽屋(ひきや)と言って、茶入を納める入れ物で、竹でできています。
挽屋に入れて、さらに箱へ納めます。

 

―茶入というのは日本発祥のものですか?
もともと、中国から伝わった小壺を、日本で茶入として使い始め、それをもとに日本でも作るようになりました。最初に日本にもたらされた小壺には、中国から持ち帰ったお茶の種を入れたと言われています。
中国ではある時期から生産されなくなっており、現在では何に使われていたかわからなくなっています。
中国製のものは唐物茶入と呼ばれる貴重なものでした。

 

―これは日本で作られたものですか?
そうです。唐物茶入をアレンジして日本で作りました。瀬戸(愛知県)の焼物です。

 

―瀬戸の焼物は有名ですね。
日本で古くから焼物が作られた6つの窯(六古窯 ろっこよう)がありますが、そのうちのひとつが瀬戸です。六古窯は常滑、越前、丹波、信楽、瀬戸、備前です。
瀬戸は鎌倉時代(12世紀頃)から陶器の生産を始めました。中国陶磁の影響を受けた高級陶器で、公家や武家、寺院向けのものでした。

 

―古瀬戸と「古」が付いていますね。
現在も操業している瀬戸焼の歴史の中で、鎌倉~室町時代頃に作られたものを「古瀬戸」と呼びます。特に茶入に多く使われる言葉です。
この茶入は15~16世紀に作られたと考えられています。

 

―肩衝というのは?
茶入の形の種類のひとつです。肩というのは茶入の口のすぐ下の部分をさすのですが、この肩の部分が張った形を肩衝と言います。所蔵の「唐物肩衝 銘 蘆庵」(下写真)が典型的な肩衝です。ただ、この茶入は丸みを帯びたなで肩になっています。

 

唐物肩衝茶入 銘 芦庵

 

―ずいぶん形が違いますね。
中国の肩衝茶入は下に向かってすぼまる逆三角形ですが、この茶入は下の部分にも丸みがあり、たまご形に近いです。中国製にはない形です。

 

―他にどんな形があるのですか?
茶入の形は、中国製(唐物)茶入の型を基準に日本で分類したものです。日本で作られた茶入は、中国のものを基本として展開します。
「茄子」「文琳(ぶんりん)」「丸壺(まるつぼ)」など様々な形があります。茄子は全体の形が茄子に似て、丸形のやや下膨れです。文琳は丸形で、りんごの形に似ていることに由来していて、中国でりんごを意味する文琳と呼ばれます。丸壺は丸くて口が長い形です。

 

―手に持つとどんな感じですか?
薄い仕上がりでとても軽いです。日本で作られた茶入は中国のものに比べて手取りが重い場合が多いのですが、こちらは軽いです。

 

―模様は?
横筋はろくろ目で、凹凸があります。ろくろを使って成形する時にできる横筋をわざと残しています。
透明感のある柿釉の上から黒褐色の鉄釉をかけていて、黒い斑紋が現れています。黒い斑紋は鶉の羽の模様のように見えるので「鶉斑(うずらふ)」と呼ばれています。
胴の下の方は釉薬をかけておらず、土(胎土)が素焼きの状態で見えています。他の茶入にはあまり見られない表情です。

 

―蓋は何でできているのですか?
蓋は牙蓋(げぶた)といい、象牙でできています。茶色い筋は象牙の中にある傷ですが「巣」と呼び、景色として見ます。
裏には金箔が貼ってあります。毒を盛られたときに金が変色するからと言われますが、実際は変色するかどうかは分かりません。

 

小堀遠州が愛用した茶入

 

―銘 在中庵というのはどういう意味ですか?
銘というのは名前という意味で、在中庵という名前ということです。
古瀬戸肩衝茶入が分類名で、在中庵がそのものの名前という感じでしょうか。

 

―在中庵とは?
在中庵は大坂・堺にあった庵の名と言われています。一説には南宗寺(堺市・現在も存続)内にあった塔頭の名前とも伝わります。在中庵にいた道休(どうきゅう)が持っていたそうで、「道休肩衝」とも呼ばれます。
そして、在中庵にあった茶入を小堀遠州が見出し譲り受けたので、銘が「在中庵」になっています。遠州がつけた銘です。

 

―小堀遠州はどんな人ですか?
小堀遠州(1579~1647)は名前を政一(まさかず)といいます。豊臣家、徳川家に仕え、江戸幕府の作事奉行や伏見奉行を務めました。遠江守(とおとうみのかみ)に叙任されたので遠州と呼ばれていました。
建築家、作庭家でもあり、茶人としても有名です。茶の湯は千利休(1522〜1591)を師とする古田織部(1544〜1615)に学びました。現在も続く遠州流という茶の湯の流派の祖でもあります。

 

―その小堀遠州が持っていたのですか?
そうです。遠州の開いた約390回の茶会の会記があり、在中庵と飛鳥川(古瀬戸茶入)の2つが頻繁に使われたことが分かっています。在中庵は遠州が愛蔵した茶入のひとつです。 

 

―記録があるということですか?
遠州の茶会は将軍や大名を招いた会が多くあり、記録に残っています。
在中庵が使われた茶会で有名なものは、1636年(寛永13年)5月21日、品川東海寺に三代(将軍)徳川家光を迎えた御成(おなり)茶会です。
また、1641年(寛永18年)に遠州の茶会に参加した人は、遠州の茶席で見た在中庵についてイラスト入りで記録しています。

 

―袋が8つもありますが、これはどこで作られたのですか?
中国から渡来した珍しい裂(きれ)を使って、日本で仕立てています。このような袋を仕服と呼び、茶入を入れて茶席に飾ります。大変豪華です。この茶入には8種類の仕服があります。最初に4つあり、その後4つが追加されたようで、1700年ごろには現在のものと同じ裂で8つあったようです。

 

―なぜ、蓋や仕服など多くのものが付いているのですか?
茶会の時は1種類しか使いませんが、複数あれば、組み合わせやコーディネートの幅が広がります。おそらく、茶会の趣向に合わせて蓋や仕服を選んだのでしょう。

 

―それだけ使われる機会も多かったのですね。盆は何に使うのですか?
茶入は盆に載せて飾るなど、セットで使うこともあります。
盆の内側は平らで焦げ茶色に見えますが、当初は黒漆だったと思われます。内側は、もしかすると後から塗り込めたかもしれません。
縁の外側は屈輪(ぐり)と呼ばれる文様が彫られています。黒漆を塗り重ねた堆黒(ついこく)で、中国で作られたと考えられています。

 

在中庵棚

 

―棚もあるのですね。
在中庵棚といい、在中庵を茶の湯の点前で使うための専用棚です。遠州の時代に作られたかどうかは、分かっていません。
黒柿と桑の2種類の材を使って作られ、天板の下に小さな戸袋が釣られています。

 

―付属品も茶入と一緒に保管するのですか?
棚は大きいので別に保管しますが、その他はひとつの箱にまとめて入れます。

 

古瀬戸肩衝茶入 銘 在中庵 付属 小堀遠州消息

 

―これは手紙ですか?何が書いてありますか?
遠州の手紙で、水野兵九郎宛(不詳)です。
内容は2つあります。
ひとつは香合のことや長崎から下ってくる道具について。もうひとつは、在中庵を質に入れて7千両を借り受けることについてです。
冒頭の追伸部分には、2度の火災や飢饉に見舞われたことが記されています。
在中庵には7千両の価値があり、公務で必要になった金子を借り受けたのではないかとの見解があります。

 

―7千両はどれくらいの価値があるのですか?
米の価格で計算すると、1両が約4万円。蕎麦を基準に計算すると13万円ほどとも言われ、明確にどのくらいという値段を出すのは難しいようです。

 

―小堀遠州の後、小堀家がずっと持っていたのですか?
遠州の後、伏見奉行7代目小堀政方(まさみち1742~1803)は悪政を幕府に訴えられたことから解任となり、その時、領地を没収され、茶道具などが預かりとなりました。その後、1828年に御家再興となり茶道具類が小堀家に戻されたようです。
1886年(明治19年)、小堀家から貴族院議員の渡辺驥(わたなべき1836~1896)へ、茶道具等が渡ります。渡辺驥が没すると、一部の茶道具は売られましたが、それとは別に茶道具等が藤田家へ譲られました。
在中庵棚は三井松籟(高弘1849~1919、三井南家)が所持していましたが、その後、藤田家へ移りました。

 

―在中庵の見どころは?
たまごのような曲線を持つ優美な形や、2色の釉薬が斑らにかかった様子が他の茶入にない独特なもので、明るく洒落ています。それにとても軽く、丁寧に作られています。
江戸時代初期に遠州の審美眼により見出されるまではまったく無名の茶入でした。
遠州は明るく綺麗ですっきりしたものを好んだように思います。美しい仕服や、巣の入り方、つまみの形など微妙に異なる牙蓋などを数多く揃え、在中庵茶入を手にしてから没するまで、飛鳥川茶入とともに愛用し続けてきた茶入です。将軍徳川家光のほか、歴史上知られた多くの人物が遠州の茶会で目にしたことが記録からもわかる貴重なものです。

 

 

今回の作品: 重要文化財 古瀬戸肩衝茶入 銘 在中庵

(こせとかたつきちゃいれ めい ざいちゅうあん)

時代 室町時代  15~16世紀                  

小堀遠州が終生愛用した茶入のひとつです。『遠州蔵帳』に筆頭茶入として記され、1636年(寛永13年)の将軍家光御成茶会でも使われました。もとは大坂堺の在中庵に住していた道休という人物が所持していたと伝えられ、遠州によって「在中庵」と名付けられました。旧所有者の名を取って「道休肩衝」とも呼ばれます。
瀬戸で室町時代に作られた、丸みのある肩が特徴の肩衝茶入です。ろくろ目の廻る胴には鶉斑が現れ、優美で軽やかな印象があります。箱の蓋に、江月宗玩が「瀬戸 肩衝」遠州が「在中庵」と記しています。仕服と牙蓋が8種、屈輪四方盆、在中庵棚などが添っています。
この茶入は1886年(明治19年)に渡辺驥へ小堀家から伝わり、没後、藤田傳三郎へと伝わりました。在中庵棚は明治大正時代には一時三井家が所持しましたが、藤田家へと移りました。

 

 

藤田美術館

明治時代に活躍した実業家、藤田傳三郎と息子の平太郎、徳次郎によって築かれた美術工芸品コレクションを公開するため、1954年に大阪に開館。国宝9件、重要文化財53件を含む世界屈指の日本・東洋美術のコレクションを所蔵。

 

前野絵里  

藤田美術館主任学芸員。所蔵する日本や東洋の古美術品に絡むものはもちろん、宗教、建築、歴史なんでも気になる。直接役立つことも役立たないことも体験体感することが一番と考えている。

 

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