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TEL. 06-6351-0582

〒534-0026 大阪市都島区網島町10番32号

美術館の概要ABOUT THE MUSEUM

藤田美術館

 明治時代に活躍した実業家藤田傳三郎(1841〜1912)と、その嗣子らが収集した
東洋古美術品を所蔵し、春季と秋季に企画展示を行っています。

   かかる国の宝は一個人の私有物として秘蔵するにあらず、
   広く世に公開し、同好の友とよろこびを分かち、
   またその道の研究の資料にせまほしく


 藤田家の願いから、昭和29年(1954)に開館しました。
 明治の終わりから大正初期に建てられた藤田家の邸宅は、昭和20年
(1945)の大阪大空襲により、その殆どを焼失しましたが、幸いにも、蔵や庭園の多宝塔などは類焼を免れました。展示室は、この蔵を改装したもので、内部には木材が多用され、窓からは陽の光が射し、自然の空気が流れる落ち着いた空間となっています。庭園には、東大寺の塔の礎石や、7世紀に建てられた山田寺(奈良県)の金堂礎石などが点在します。
また、隣の太閤園や藤田邸跡公園では、当時の庭園の雰囲気を感じることができます。

(ENGLISH)
The Fujita Museum was founded in 1954 to display the extensive collection of Buddhist and East Asian art amassed by the industrialist Fujita Denzaburō (1841-1912) and his sons Heitarō and Tokujirō.

The concept of this museum is to contribute to the development and promotion of culture and art through original exhibitions.

Consisting of 9 National Treasures and 52 Important Cultural Properties, the museum’s collection is one of the largest private collections in the Kansai region.

The museum is open twice a year-in the spring and autumn-to showcase its collection through original themes.


藤田傳三郎

CEO


 幕末の天保12年(1841)長州(萩市)に生まれる。
明治初頭(30歳の頃)に大阪へ出て、軍靴製造、軍需品や人夫を調達する用達業、トンネルや橋梁、疎水工事に係る土木建築などの事業を興しました。

 明治17年、小坂鉱山(秋田県)の払い下げを受けて本格化した鉱山業が中核となり、事業の規模は更なる発展を遂げました。他にも、児島湾(岡山県)の干拓事業を手掛けたり、紡績・鉄道・電気・新聞など、近代化する日本の基盤となった事業に大きく関わり、大阪商法会議所(今の大阪商工会議所)の第二代会頭を務めるなど、大阪財界に大きな功績を残しています。


    傳三郎は、若い頃から古美術への造詣が深く、特に茶道具に対する鑑識眼は卓越していた
   と云われます。能や茶道をはじめ、日本文化を好み、邸宅には能舞台や沢山の茶室を構え、
   これに興じていたようです。維新後の廃仏毀釈などの影響から、歴史的な仏教美術品の数多
   くが海外へ流出していることに憂慮し、これを阻止するために膨大な財を投じました。
    古美術品の収集は、亡くなる直前まで続けられたと伝わります。

                               明治45年3月30日没(70歳)


      予は当時この状態を見て思へらく、社会の秩序は、
      文物制度の整頓と相まって早晩一定すべく、
      その美術志向は国富の増進と共に崇高に赴くべし、
      さればこの際に於て、大いに美術品を蒐集し、
      傍ら国宝の散逸を防がば、
      他日の悔いを遺さざる事を得べしと、
      依って資を傾けてその蒐集に努めぬ

                              「藤田翁言行録」より


(ENGLISH)
Fujita Denzaburō was born in Chōshū Domain (present-day Hagi City, Yamaguchi Prefecture) in 1841, at the end of the Edo period. In his thirties, at the beginning of the Meiji period, he moved to Osaka, where he managed and expanded a civil engineering construction company that worked on the reclamation of Kojima Bay and a mining company that operated in Kosaka, Akita Prefecture. He was also closely involved in railways, electric power generation, newspaper, and other enterprises that became the basis of Japan’s modernization, and acted as the second head of the Osaka Trade Assembly (now the Osaka Chamber of Commerce and Industry), thereby leaving a mark on the financial world of Osaka.

At the same time, Denzaburō was deeply knowledgeable about early East Asian art from a young age, and had an especially discerning eye for tea utensils. He was a connoisseur of noh theater, tea practice, and other Japanese cultural arts, and had a noh stage and tea rooms at his residence.

Due to the anti-Buddhist movement at the beginning of the Meiji period (1868-1912), many historic works of Japanese art ended up overseas. Fearing this, Denzaburō spent much of his vast fortune amassing tea utensils, Buddhist art, and other early East Asian works until nearly the end of his life.


略年表

天保12年(1841)
藤田傳三郎 生誕
明治11年(1878)
藤田傳三郎商社 設立
明治14年(1881)
社名変更 藤田組となる
明治17年(1884)
秋田県小坂鉱山の払い下げを受ける
明治19年(1886)
大阪商法会議所 第2代会頭に就任
明治32年(1899)
岡山県児島湾の干拓工事着工
明治44年(1911)
男爵の爵位を授かる
明治45年(1912)
藤田傳三郎 逝去
昭和26年(1951)
財団法人藤田美術館 設立
昭和29年(1954)
藤田美術館 開館
昭和31年(1956)
博物館法上の登録博物館に登録
平成25年(2013)
公益財団法人へ移行




バナースペース

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